【選手ファイルVol.2】大島洋平(中日ドラゴンズ)

選手ファイル

2019年9月。

それは丁度このぼくのブログが始まった頃。

中日の大島洋平の最多安打タイトル獲得が確定した。

大島にとっては初の、念願だった最多安打というタイトル。

毎年口にしていたタイトル。とうとう、手に入れる日が来た。

これからこのコンテンツを執筆するにあたって書いておくと、

ぼくはとんでもないほどの大島ファンである。

いや、もう尊敬していると言っていい。

とにもかくにも有名人で尊敬しているのは、大島洋平ただひとりだ。

ぼくがこれから書く事は、このタイトルをようやく手に入れた喜び、

そして大島洋平という人物そのものに対する、ぼくからの感謝状だと思ってほしい。

大島洋平が体現した、世界は無限大という可能性

当然知らないファンの為に、プロフィールはこちら。

大島洋平(おおしまようへい)
誕生日 1985年11月9日
出身 愛知県名古屋市緑区
経歴 享栄高校ー駒沢大学ー日本生命
身長 176㎝
体重 75㎏
投打 左投左打

2019年シーズンは高橋周の成長や、阿部の意外?な活躍もあり、大島が1番から3番という今までの固定打席観念が崩れた年でもあった。

そして二度の骨折。

それを乗り越え、最後まで坂本(巨人)と最多安打争いを続け見事にタイトルを獲得したほか、

打率312、盗塁30、得点圏打率は.347というハイアベレージで、シーズンを終えている。

大島が身体を持って魅せてくれるものとは。

大島は2019年の11月で34歳になる。

なぜこれほどの打率や安打が、二度も骨折しながら結果として残せているのか。

それは大島自身が荒木を仰ぎ、練習の大切さを知り、基本は練習にありと考える。

そして練習の成果のみを信じながら、打席に立ち続けたことが、勿論理由として挙げられる。

だがその先にとんでもない可能性が見えるのは何なのか?

彼が歩んできた軌跡と、骨折をこの9年間で幾度もしている程に、またいくつもの壁を乗り越えたこと。

それは報道されている通りで、当たり前のように存在している。

そして、どんな時でも決して練習やオフの調整も、ある時は我慢をして、ある時は工夫し、何より継続し続ける。

毎年新しいテーマを持ってシーズンに臨む。

要するに野球という自身の仕事に対して、常に真摯に向き合い、一度も手を抜いたことはないからだ。

大島はプロ野球としては決して身体に恵まれているわけではない。

身長も野球選手としては低い。

だが、限りない可能性が見えて、そしてある意味とんでもないことをやってのける。

それは大島洋平という人物やその性格が「野球」だけをずっと手を抜くことなく

やり続けて出して来た結果なのだ。

大島洋平の軌跡、それは具現化した目標へ向けたもの

(大島の入団記者会見を報じた当時の中スポ)

大島はドラゴンズの地元、名古屋市の出身。

小学生の時父とのキャッチボールから始まり、少年野球チームに所属していた。

スポーツに関してはサッカーやバスケなど、一通り何でもこなせたという。

だが大島本人は野球しかやりたくないがために、他の競技では楽しみ程度だった。

野球をやりたい。

そう両親に告げた時、当時の大島少年は母親とある約束を交わしている。

「絶対辞めないなら、やってもいいよ」

というものだ。

大島本人曰く、今でもこの約束を守っているだけにすぎない、とも言っている。

そして享栄高校に進学する際は、あまり良く思ってない両親に

「骨折してでもいい。ここにする」

と言って、高校を選んだという。

甲子園にこそ進めなかったし、当時の大島は何より練習する姿をプロになるまで見せたくなかったと語っている。

それは駒沢大に進学してからもそうであった。

大学にはのちにチームメートとなる野本圭(元中日)がひとつ先輩におり、野本のバッティングを見ていつも感激していたという。

そのころから実力を見せつけてきた大島の当時のあだ名は「東都のイチロー」だった。

大島は高校までは投手兼任だったのだが、大学から外野手一本に絞っている。

そう世間から言われることに対して大島は、大げさなんじゃないか。と位、殆ど大雑把にしか捉えていなかった。

大学でもプロには行けるチャンスは回らず社会人野球の道を進むことになる。

だが大島家は実は、しっかりしたお宅なようで。

祖父がトヨタに勤務しているから、家族はトヨタに進む手続きにも着手しかけていたという。

それでも、大島が日本生命を選んだ理由は、ただ自分を日本生命のコーチが、ずっと真っすぐに大島という選手を評価し続けてくれていたからだ、と著書の中には綴ってある。

これは、何も分からないことより、信念や信用は大切だということだと思う。

そして日本生命に進み、二年後の2009年にドラフト5位で中日から指名を受ける。

しかしもう大島は結婚(まあ、随分付き合って早く子供が出来たもんだと個人的には思っているが、それに批判も賛成もない)しており、6月には長男が生まれた。

さんざ悩んだ挙句、大島の妻の一言もあり入団を決めたという。

わたしはどうなってもいいから

好きなようにすればいいよ。

確実に不安定なパートナーに対し、20そこそこの連れ合いがそうそう言える言葉ではない。

さすがにプロ野球選手の妻として立派だな、とぼくは素直に思っている。

そして家族3人で臨んだ入団記者会見は、随分と話題を呼んだけれども、その時口にした言葉も他の選手とは違っていた。

たいていの選手が一軍を目指します、位で終わる。

だが大島は、一軍で40歳くらいまで現役でいたい、タイトルを手にしたい。などかなり具体的な目標を語っている。

これは仕事をするにおいて、とても重要なことだ。

なぜ我々は稼ぎたいのか。なぜトップを目指して自由になりたいのか?

その理由を見つけられない社会人が多い中で、こうやって具体的なビジョンを掲げる事こそ、自身を焚きつける結果となる。

大島の成功のひとつには、この「大きくなるための具体的な目標」があったのも他ならない要素だと、ぼくは思う。

データから読み取る、大島洋平という選手の特徴

ここで大島洋平の年度別成績を彼の軌跡は下記のリンクをご覧いただきたい。

大島洋平(中日ドラゴンズ)年度別成績

実はぼくは、野球自体は幼いころからすっと見てはいるものの、どこかの球団一筋で来たことはなく、どこのファンにも所属してない期間のほうが長い。

その中で、ぼくは球団のファンであるより何より、野球が好きでいたいという思いから来ているからでもある。

それだから、中日のファン歴も浅い。

初めて中日戦を見に行ったのは、おおよそ今から4、5年くらい前になる。

2015年か、2016年あたりから頻繁にぼくはボールパークの中日戦に足しげく通うようになった。

だがそのころの大島は、あるお約束があった。

それは得点圏の低さだ。

規定打席に達している選手の中で、はっきり言えば下から数えたら3番目以内には必ず見つかってしまう。

そして試合で、チャンスの場面で大島が回ってくれば

「はい二ゴロ(セカンドゴロの略称)予約!」

みたいな感じに見るような、恐ろしくチャンスに弱い選手として知られていた。

だがぼくを引き付けたのは、バッティングの技術の上手さと、打球が外野に飛んできたときの大島の極端に判断の速い動きである。

当時は東京におり、だいたいレフト(要するにビジターなので)でしか見れなかったぼくは、

レフト方向に飛んでくる打球を追いかける大島が、

あっという間に目の前辺りまで来ることに、まずびっくりした。

他のセンターより判断が速いから、両翼へのカバーはとんでもなく速かった。

そして打撃では、うまい腕の振り方と手首の返しでの打ち方である。

アウトコースに来れば、ややバットを反らすように当ててレフト方向に飛ばす。

インコースに来ればえらい速さでもって手首を返し、バットを回転させてライト線際を狙う打ち方をする。

これは練習していないと絶対にやらないだろう、というのがぼくの印象だった。

選手は自主トレの段階から、あらゆるトレーニングをするべきである。

(引用:https://spollup.jp/)

それでも隔年選手と言われながら、そこそこの成績を残しているのは、ドラゴンズという球団にセンターが出来る外野手が少ないことも一因している。

それ以上に大島が、「インコースを打てなければ、プロとして食っていけない」というのを実感し、既に2年目からはインコース打ちの練習に集中していた期間があったからだ。

大抵インコースに対応出来る選手というのは息が長いし活躍する。

巨人の坂本なんかはいい例だ。

同じ中日の京田がインコースに全く手が出せなかった結果が、京田自身の2年目の成績に表れているように、大抵の選手はインコース攻略がカギとなる。

それにいち早く気づいて練習していた荒木を真似たのが大島だった。

自主トレというものはだいたい、走り込み、ウェイトトレーニングなどはやって当たり前である。

それからさらに、投手だって打者だってメカニックなトレーニングを積んだ選手は、必ずそのシーズンに何らかの結果を出している。

オリックスで言うなら、ぼくの知っている限りでは今年の山岡や山本由伸、

ハンバー投げの室伏氏と自主トレをする吉田正尚などがそうだ。

それはあくまで自主トレの期間に、自分でやるものである。

何でも自らから動くこと。下積みを進んで実践すること。

これはどの職業でも、成功を掴むカギとなるのがお分かり頂けるのではないだろうか。

大島洋平、突如確変の先にあったもの。

得点圏打率の低さに関して当時大島は、特に意識して打席に入っている訳ではないのでなぜだかは分からない。というようなコメントを残している。

それが変貌を遂げたのが2017年。

ごっそりとベテランが抜け、ドラゴンズが原点回帰なんて謳った年。

京田の加入、そして平田の大不振もあり、もともと1,2番であった大島が3番センター大島と呼ばれるようになる。

そして得点圏打率は4割を超えていた時期もある。

4割っていったら、言っては悪いが大島自身倍にチャンスに強くなっているということである。

子供にホームランを打ってきて、と言われても悪いけど打てんから、その代わりヒット沢山打ってくるわ。

そう言う大島というのは、完全なミート型の打者だし、実際タイカップ型のバットにしてからはそれが顕著に結果に表れるようになる。

足の速さも手伝って、あれよあれよという間に二塁まで行ってたりすることもあった。

打率争いにも加わり、このままいけば念願のタイトルだ。

それが打ち砕かれたのは、忘れもしない2017年8月31日。

対横浜戦において骨折。

今季絶望という結果につながる、致命的なデットボール。

ちなみにこの時の打率は.313。

この年の中日は、本当に死球で離脱する選手が多すぎて

「そして誰もいなくなった」

状態になりかねないほど、怪我人が出た年だった。

だが不思議なことに、その大島の残した打率は、既にシーズン規定打席に到達していたため

最後まで大島本人不在のまま、成績だけが首位打者を争っていた。

何とも表現のしがたい現象だった。

あれで首位打者を獲っていたとしたら、大島はどう思っていたのだろうか?

松葉杖をついた首位打者って、なんかかっこ悪い。

こんなのは大島じゃない。

ぼくはそう思った。

今まで積み重ねてきたことを、またやればいいんだ。

そうすればきっとチャンスが来る。必ず。

何より大島という選手が大好きなぼくは、そう祈るしかなかった。

恐らく中日ファンが思っていたことは、ほぼぼくと似通っていたのではないか。

人生って辛い時もあれば、いい時だってある。

そんなストーリーを、ぼくは当時大島に映して見ていたのかもしれない。

大島の念願だった最多安打というタイトルの重さ

2018年も毎年同様の「目標」を掲げるも、遠く及ばず、なぜか本塁打と打点だけがハイアベレージを記録した年だった。

そして2019年。

与田監督という新しい体制の中でスタートした今シーズンの中日は、今まで見たこともないような選手が、今まで見たこともないような活躍をしたような年。

そして大島の一番弟子とも言える、周平の大成長。

ぼくはこのまま大島がタイトルをとれなくても、弟子である周平が獲ってくれたら仇討ちみたいになるから、いいかなあなんて思ったこともある。

だけど本人にやはり獲ってほしい。

だが誤審騒ぎのハイライトともなった、「幻のランニングホームラン」での骨折。

そもそも死球が多い選手の大島はまたしても死球で骨折。

だがそれでも試合に出続けた。

骨折しても出場し続けることに関しては、ファンから「プロ意識の高さ」を評価する声と裏腹に、本人や監督がドクターストップをかけてもよかったのではないか。

選手生命に関わったら、首脳陣は責任をとれるのか。

そういう議論も沸いたことは事実だ。

だが、ぼくが思うのは、大島という選手はかなり頑固な性格の持ち主だと思っているので、本人の絶対出ますという意思が勝ったものではないか?と予想している。

プロにしかない、最多安打というタイトル。

それは中日に確実にセンターが守れる、打てる大島にうって変われる打者が、相変わらず出てこないこともひとつの要因ではある。

それでも、今年はベンチスタートの日もいくつもあった。

それでもドラゴンズ自体の打線が好調な時期も相まって回って来た打席は623打席。

選んだ四球は50で、これは大島自身シーズン最多である。

もともと球筋の見極めが良い打者ともいえるが、早打ちに出なかったことも今年四球を選び、打数を減らしたことがヒット量産と打率上昇につながった。

今年のセリーグは3位滑り込みが最後の最後まで分からなかったが、最多安打もまたわからなかった。

ぼくなど忙しくても、速報の記録をみてしばしばチェックしてはドキドキする時間が増えていった。

絶対に獲れよ。

落合がいつか放った言葉。

『タイトルでも獲ってみろ』

あの時のこと。骨折のリタイア。書けばキリがない。

テレビでも、ラジオでも、著書の中でも、

一番に獲りたいタイトルとして常に最多安打だと語っていた。

あと少しで獲れなかった年もある。

大島が最多安打タイトルを獲りたい理由としては、

「アマチュアにはなく、プロにしか存在しないタイトルのひとつ」

だからと著書の中にある。

プロだからこそ欲しいタイトルが、大島にとっては最多安打だった。

そしてその瞬間が来た。

ぼくはといえば、体調を崩していたので小さい部屋の中で布団にくるまり、布団の中で速報で知った。

そして小さくやったぜ。と言って。少しだけだけど、涙がでた。

大島洋平を見たときのちっぽけな思い出。

少し個人的な話を書かせていただくと、ぼくがナゴドで初めて観戦したのは2017年6月27日。

対阪神戦。先発の小野をなかなか崩せない打線。中日もまた継投を重ねながら0点でしのぐ。

6回裏、京田の四球をきっかけにランナー3塁で、大島に回った。

すると打球は綺麗な放物線を描いて左中間を割った。

9回表には2度も大きな打球が外野に飛んできて、目の前で大島がナイスプレーの連発を見せ、1-0で勝利した。

初めてのナゴドで、ぼくは初めてビジョンでみるヒーローインタビューで、お立ち台で、大島を見るという結果になった。

贔屓の選手が、初めて来た本拠地のボールパークでお立ち台になった気分というものが、どんなものか。

やきうファンのヒトなら、

だいたい分かってくれると思っている。

大島選手の著書はこちら

まとめ 大島洋平に贈る感謝状

拝啓 大島洋平様

ぼくに、自分に自信を持つことが、どれだけ大切なのか。
社会の中で打ち勝つために、何が必要なのか。
掲げる目標は何のために、立てるものなのか。

それらを教えてくれて、ほんとうにありがとうございます。
人生で、尊敬する一人として、
ここに感謝を申し上げます。

大島を見ていると、人生の中心となる仕事において悔いなく生きるために、何が必要なのか。

それをまんま忠実に教えてくれている選手のひとりだと、ぼくは思う。

ただただ練習し、野球の悩みは、野球でしか解決できない

気晴らししても答えが出ない時は、仕事でしか解決できないという事になる。

大島はそのタイプである。

そして何よりも基本を大切に考え、納得するまでストイックに生きる。

結果なんてストイックに探究したものの先にあるという価値観。

それだから、ぼくはそんな生き方をこれから大島のファンとして、

ちょこっと真似したいなと思っている。

そして大島には2019年に、4人目のお子様が生まれている。

その子が物心ついて、野球をやっている父の姿をしっかり目に焼き付けるまでは、現役として存在してほしいと願ってやまない。

 

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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